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歴史(筑後川・矢部川)

治水利水に貢献した先人たち

 流域の各市町村の産業はもちろん、交通・文化・政治などすべて筑後川の影響を受けており、特に稲作はその度合いが大きい。しかし稲作に必要なかんがい用水は最初から簡単に引水できたものではなく、筑後川流域の先人達の並々ならぬ辛苦と努力の結晶であることを忘れてはならない。ここに生命を傾注して郷土発展のため尽力した先人達の業績をふりかえってみる必要があろう。
成安兵庫

 成富兵庫は永禄3年(1560年)肥前国(現佐賀県)佐賀郡益田に生まれ、佐賀藩主鍋島直茂、勝茂父子二代に仕えた。

 熊本城の築城をはじめ、大阪・名古屋両城の修城を助け、諸将からその技術を買われて高禄召し抱えのさそいがかかるほどであった。したがって、兵庫は佐賀藩きっての土木技術者で、川上川(現嘉瀬川)はじめ藩内の20有余の築堤を完成させ、さらに佐賀城下に用水を通して新田を開発した。

 特に筑後川右岸に、元和元年(1615年)から12年の歳月を要し、堤敷幅30間(約54m)、堤防高4間(約7.2m )、天端幅2間(約3.6m)、延長3里(約12km)におよぶ当時としては大規模な連続堤を完成させている。俗にいう千栗堤である。

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