トップページ > 学ぶ・調べる > 歴史(筑後川・矢部川) > 川の先人たち

学ぶ・調べる

歴史(筑後川・矢部川)

治水利水に貢献した先人たち

 流域の各市町村の産業はもちろん、交通・文化・政治などすべて筑後川の影響を受けており、特に稲作はその度合いが大きい。しかし稲作に必要なかんがい用水は最初から簡単に引水できたものではなく、筑後川流域の先人達の並々ならぬ辛苦と努力の結晶であることを忘れてはならない。ここに生命を傾注して郷土発展のため尽力した先人達の業績をふりかえってみる必要があろう。
田中吉正

 1547年近江国(現滋賀県)に生まれ、関ヶ原の戦(1600年)の殊勲により筑後32万5千石の領主となり、柳川城に居住した。筑後に入国してまず始めに、筑後10郡の庄屋百姓に、筑後川河畔にある葦野を開拓して耕地の拡張を命じ、自らも海岸埋立を企画し、汐土居の築堤に着手した。

 また、筑後川の流れを深くして舟運の便をはかった。さらに国内各所の城壁を撤去し田畑にしたといわれている。その頃の筑後川沿岸住民は洪水のため荒野となるのが悩みの種であった。そこで吉政はこの解決策として、善導寺町(現久留米市)から筑後川の水を引水し、高良山下を経て、三潴郡を横ぎり、山門郡の塩塚川に注ぐ大運河を計画したが、計画なかばで逝去したと伝えられている。

このページの先頭へ